配達事故はゼロに近づけることはできてもゼロにはできない。
そのために、補償制度というものがある。
処方としては①配達事故をゼロに近づける努力をする②代替性の利く荷物の紛失時には「同じもの」を迅速に手配し遅配について謝罪または賠償する。③この世に二つとないものを客側は他人に配達を委ねない。仮に委ねた場合は上限のある補償金で我慢する、という方法しかない。
わずか5年前と比較しても宅配の量は数倍に増えている。不在時に再配達を繰り返すのは荷物の中身によっては次第に不合理となっていかざるを得ない。疲れて帰ってきたときには「〇〇の件の方は1番を、××の件の方は9番を、、、」などとうるさいコンピュータを相手にいちいち番号を入力していくのは苦痛だ。不在票を無視すれば、宅配ドライバーが何度も無駄な訪問を繰り返さなければならない。双方の省エネのために,宅配ボックスを設けたりあらかじめ時間指定を設けたり相手が満足するコツをつかんだりするのがサービスのあるべき姿である。
こうしたご時世にあって郵便局に「名前、不在票番号、電話番号、住所、配達希望時間」を電話で告げるのは世の中で最も不条理なものの一つであろう。不在票(郵便局預かりのお知らせ)の番号だけで荷物や配達先は特定できるはずなのだ。それが特定できなければ不在票の番号など意味をなさない。なのに客の時間とエネルギーを平気で彼らは奪う。
請求書や領収書なども「信書であり、信書は日本郵政公社しか配達できない」とされており(総務省告示「信書に該当する文書に関する指針」)その後の民間参入も名ばかりで10万本ものポスト設置を義務付け、実質的に「民」を緩めだした。これらが配達記録郵便物になっいる場合家事や仕事で手が離せずインターホンで「郵便受けに入れていってください」と伝えると日本の郵便局員は「無理です」と言って本当に持ち帰ってしまうのである。本人が「自分の郵便受けに入れていってほしい」といっても彼らは「印鑑をもらう」のを優先させるのだ。配達記録に印鑑を押させるのは万一「本人が受け取っていない」といっても「受け取ったことになっている」と主張する方便に過ぎない。そのように強弁できるよう配達される側全員に「印鑑を押す」ことを強いるわけだ。
私はこの制度をやめろと言っているわけではない。そのような制度を続けてもよいが本人が在宅しているJことが明白で(悪意の他人がその家にいたなら彼は犯罪者だ)郵便受けに入れておいてほしいといった場合にまで悪意の第三者に対する防御システムに過ぎない「印鑑を押さなければ持ち帰る」を強行するのは本末転倒だといっているのだ。レアケースだという意見もあるかもしれない。が、そのようなケースにこそ、本質が露呈するのである。
            (サービスの花道 日垣隆)